航海作家カナマルトモヨシの船旅人生

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zoom RSS ニューいしかりで名古屋から仙台へ#16

<<   作成日時 : 2011/07/12 13:46   >>

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まもなくフェリーターミナル前に一台のバスが停車します。
16;58発でJR仙石線・中野栄駅やJR仙台駅と連絡するので、
徒歩乗船者にはありがたい存在です。
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中野栄駅までは10分で140円、仙台駅まではおよそ45分で490円です。
仙台駅には17:40過ぎに到着予定なので、
東京方面に新幹線で帰る人はその日のうちに帰京も十分可能です。

浪人も2008年12月に仙台と苫小牧を「きそ」で往復したときは、
この宮城交通の連絡バスのお世話になりました。

しかし今回は、このバスを利用しません。

浪人はケータイを取り出し、
ある人に連絡します。

電話に出た人は浪人にこう言いました。
「そのままターミナルで待っててください。
すぐに迎えに行きますから。」

たけぞう&浪人コンビは、迎えの人が来るまで
ターミナルで待機します。

フェリーターミナルはほぼ震災前の機能を取り戻していましたが、
すぐそばにある建物は3月11日に発生した津波の恐ろしさを物語っています。
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まもなく一台の車がターミナル前に到着。
そこから現れたのは浪人にとって懐かしい顔でした。

Gくん。
彼と知り合ったのは
1998年の12月から翌年の1月まで約3週間、
浪人が取材乗船した船の上。

下船後、Gくんは同じ船に乗っていた女性と結婚し、
仙台港からそれほど遠くない場所に居を構えました。

ところが、3月11日に起きた津波は
Gくん夫妻が暮らす地域のすぐそばまで押し寄せました。
なんとか近所の避難所に逃げ、
さらにGくんの実家がある秋田県に疎開。

さいわいGくん夫妻の家は、
ギリギリ津波の襲来を免れました。

帰宅したGくんが次にとった行動は
仙台駅前での被災者救済の募金活動でした。
幸運にも自分は家も家族も失わなかったが、
すぐそばには大きな被害を受けた人々がたくさんいる。
黙って見ていられない、ということで始めた募金活動。
集まったお金は、いろいろ考えた末、災害救援活動に来ていた自衛隊に手渡しました。

その後、会社に復帰したGくんは
週末を利用したボランティアを始めます。
平日5日間は会社員として働き、
休日は仙台市の沿岸部、さらに石巻市でガレキや泥の撤去に汗を流します。

さらに自宅をボランティア志願者のためのベースキャンプとして開放。
主に関東などからボランティアとしてやってくる友人たちを自宅に宿泊させ、
ボランティア作業のある場所まで車で送迎。
Gくんの家にやってくる大半が土日を利用した1泊2日ボランティアですが、
なかには1週間Gくん宅で寝泊りして活動した人も珍しくないとか。

実は浪人が名古屋から仙台まで船に乗っていたこの週末も
関東からの友人が10名ほどGくん宅に泊まりこみ、
仙台・石巻ボランティアを行っています。

10名の週末ボランティアを受け入れ、
そのアテンドに奔走するGくん。
そこへ海からやってきたのが浪人でした。

「忙しいようだったら、週末ボランティアさんたちを送り届けたときに仙台駅で会うだけでもいいよ。バスに乗れば我々も仙台駅に直行できるし」
浪人は多忙であろうGくんを気遣ったのですが、
「いいえ、バスのルートだと被災地の実情は見えにくいので、僕が案内します」
と、キッパリと言われてしまいました。
そして、週末ボランティア10人のアテンドは奥さんに任せて
Gくんはフェリーターミナルに駆けつけたのでした。

およそ1年半ぶりの再会となったGくんは、震災前と変わらぬ明るい表情で迎えてくれました。
いや、もしかすると以前よりもたくましくなったようにも見えます。

Gくん、次のように呼びかけ続けています。
「ボランティアが出来ない人も、とにかく現地に来てその状況を実際に見て欲しいです」

たけぞう&浪人コンビの今回の旅のスケジュールでは
残念ながら仙台でボランティアする時間的な余裕がありません。
でも、被災地に足を踏み入れたなら、その現状はしっかりと見ておきたい。
そんな浪人たちの肩をたたいてくれたのがGくんの呼びかけだったのです。

仙台に到着した6月中旬は、1年でも日の入り時刻が最も遅い時期。
現在時刻は16:50すぎ。あと2時間ほどは上空も明るいはず。
こうして、Gくんの案内によるたけぞう&浪人の被災地訪問はスタートしました。

仙台港フェリーターミナルの前の道路。
浪人が2008年12月に来たときとは、まったくの別世界になっていました。
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でも、「近隣住民」のGくんにすれば
「仙台港周辺もずいぶんとガレキが片付いてきれいになりました」
ということになるようです。

震災後しばらくは道路がガレキの山で埋まってしまい、
ターミナルにたどり着くことすら考えられない惨状だったとか。
いま車窓に広がるのは一直線に伸びる道路、
そして区画ごとに分別されたガレキの山々。
自動車も無造作に並べられているのではなく
すっかり壊れて廃車にするしかないもの・まだ再利用がききそうな可能性のあるもの・・・などなど
今後の用途別に整然と区分けされていました。

「これを見ると日本人って凄いなあ、って思いますよ。ガレキだってこんなに几帳面に仕分けてしまうんですからね」
と、こうした光景を見慣れているはずのGくんも舌を巻くのでした。

6月末に再開を控えた「夢メッセみやぎ」の前を通り過ぎ、
キリンビール工場を過ぎた車は
フェリーターミナルからそれほど離れていない
宮城野区蒲生(がもう)地区に入りました。
ここは地震直後の津波で壊滅的な被害を受けた町です。

「写真を撮りたいと思ったら言ってくださいね。車止めますから」
そんなGくんの親切心を
浪人は10分ほど無視してしまいました。

いや、写真を撮ることが出来なかったのです。

浪人は3月11日以来、
被災地の光景というものを
テレビ、写真などでイヤというほど見てきたつもりでした。
「だから現地で実際に被害状況を見ても、
なんだかデジャヴ感にとらわれるだけで、
それほど衝撃を受けたりしなくなっているのではないか」
そんな浪人の心配は、
眼前に広がる現実によって
あっけなく吹っ飛んでしまいました。

車窓に広がる蒲生の光景。
それは浪人はもちろん、日ごろは剛毅な性格のたけぞうをも黙らせてしまったのです。
3月11日午後2時46分まで、
ここは平穏な住宅街として多くの人々の営みがあったはずです。
それから3ヵ月後、蒲生に人の営みは戻っていません。

ようやく撮影した画像がこれです。
中野小学校があった場所です。
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×のついた車は、持ち主がこの世からいなくなってしまったことを表しています。
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海に面した地域だったため、
津波の被害をモロに受けてしまったのです。
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Gくんはここで車を止めました。
「泥棒多発」の注意書きの前で。
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畑や田んぼから流された
車、農機具、重機から燃料を取る
お金になる鋼材(鉄くず)など
その他(倉庫・タイヤ・アルミホイル)お金になるもの全てです。

そして最後により大きな文字で
注意!!
とあります。

震災直後、世界からも賞賛された被災地の日本人の行動や礼節。
でも、それとは正反対の行為も被災地では日常茶飯事ということです。

つい1時間前まで乗船していた
ニューいしかりでの優雅な時間。
それが遠い昔のことのように思えます・・・。

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