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定刻よりも1時間以上も早く釜山を出港したKCブリッジ。 まもなく墨を塗りたくったような夜の海峡に乗り出す。 ところで、浪人が泊まっている1等室が エントランスロビーと同じ3階6デッキにあることはすでに述べた。 そして1等室の前を走る廊下を右手に直進すると コンビニ、ギフトショップ、免税店、そしてつきあたりにレストラン。 ここはいわばKCブリッジのメインストリートなのである。 すべての乗客の搭乗が完了した21:00少し前から このエリアには人だかりができ始めていた。 この人たちは誰もがまだ開業準備中のコンビニやレストランをのぞいては 所在なさげにウロウロしている。 そういう人たちの数は次第に膨れ上がり始め、 とうとうコンビニの前に行列を作る。 21:00になってコンビニがオープンすると 待ってました!とばかりに乗客が店内に殺到。 まもなくレジに長蛇の列が。 彼らが手にしているのは韓国製カップめん そして缶ビールや焼酎、チップスなどのおつまみ。 コンビニにある商品は韓国内のコンビニで売られているものと一緒。 食品を中心にかなり豊富な品ぞろえ。 すべてウォン表示で、カップめんは1000ウォン(およそ110円)だった。 これらを買った人々は船尾にあるレストランへ直行! カップめんを缶ビール片手にすすりだす。 チェックインが夜遅いこともあって、皆さんお腹がかなりすいていたようだ。 レストランにある液晶テレビでは 竹島問題や金剛山で北朝鮮兵士に韓国人観光客が射殺された事件など なんともきな臭いニュースが報道されていたけど 乗客は食べるのに夢中でほとんど見ていなかった。 出港直後に、コンビニの斜め向かいにある免税店がオープン。 こちらも空港やフェリーターミナルに負けず劣らずの品ぞろえ。 韓国人女性スタッフが制服に身を包んで「オソオセヨ〜(いらっしゃいませ)」と丁寧にお辞儀しながらあいさつする。 こちらも多多くの乗客で賑わっていたが、 ブランド品がディスプレイされているコーナーを大勢の子どもたちが叫びながら駆け回っていたのは ものすごいミスマッチな光景でもあった。 免税店の隣にあるギフトショップは この航海中はずっとクローズのままであった。 しかしまあ、なんだろうこの日本製品の陳列は・・・・。 日本といえば、ここにある日本語も微妙に違っている。 「非常信号及ぴ退船について」 まあこれで逃げ損ねることはない。かえってこれくらいのマチガイなら愛嬌があってオモシロイ。 さて、東横インの朝食サービスをたっぷりいただき、 釜山博物館に入りびたっていたことで昼食が遅くなった浪人は 22:00を過ぎて、少しだけだがようやくお腹がすいてきた。 コンビニの隣にこのような券売機がある。 「食券700円 ビール300円」とありながら 「自動販売機はウォンしか利用できません」とも。 いったいどちらが本当なんだ!と突っ込みたくなるが、正解はウォンのみ利用。 釜山発のこの時間のメニューは以下の3種類。 生ビール×1=3000ウォン 生ビール×2=6000ウォン おつまみ=3000ウォン 定食などしっかりお腹にたまるものの販売は行っていない。 だからコンビニが大繁盛するわけだな。カップめんも1000ウォンだし。 浪人は生ビール1つとおつまみセットを買う。 トータル6000ウォンなり。 韓国人客がコンビニ商品ばかり買って、レストランはそれを消費する場になっていたことで レーンでヒマそうにしていた韓国人女性スタッフに食券を渡す。 やっとお客さんが来た!とばかりに笑顔になった彼女は 「カムサハムニダ(ありがとうございます)」 といって、サーバーから韓国製生ビールをつぎ、ラップがかかったおつまみセットを出した。 韓国海苔と乾き物3品。なるほど、おつまみです。 後方に遠く釜山の灯がみえる窓際のテーブルにこれらを持っていき、 ひとりで韓国出国を祝って乾杯。 いや、実は自分のためだけの乾杯ではない。 いまから13年前、ちょうど戦後50年の8月。 浪人は3人の仲間とともに神戸から燕京号という船に乗って中国大陸を目指した。 天津に到着するとそのまま大連行きのオンボロフェリーに乗り換え。 大連から「かつての満州を歩いてみよう」ということで 特急列車で瀋陽、バスで長春、ハルビンへ。 再び大連に戻ってきたとき、神戸を船出した4人は2人になっていた。 仲間のうち2人は日本で用事があるので帰国したのだ。 残ったひとりが「ホソやん」と呼ばれたフリーカメラマンである。 彼とは実は、2ヶ月前に知り合ったばかりであった。 この年の6月に企画された戦後50年・南太平洋クルーズの船上で。 東京を出港したウクライナ船籍のカレリア号は チューク(トラック)島→ガダルカナル→ラバウル→パラオ→那覇→神戸 と周り、出港から20日後に再び東京に戻ってきた。 ホソやんはこの船に乗るために先月仕事を辞めてきたばかりだという。 南太平洋のかつての戦場をめぐったホソやんたちと意気投合した浪人は 「南にいったんだから次は北、そうだ、旧満州に行ってみようじゃないか!」 と船仲間たちと語らって、この企画は実現した。 そしてホソやんと浪人の旧満州ヤジキタ道中はさらにつづけられる。 大連からバスに乗って、鴨緑江という川を隔てて北朝鮮・新義州に隣接する国境の町・丹東へ。 ここがホソやんの母上が生まれた地だったことを聞かされた。 丹東から鉄道に乗って1泊2日、山東省の中心地・青島へ。 そして青島からバスに乗って山東半島の先端に位置する威海へと移動。 当時、黄海を横断して韓国に渡る船便は威海からしか出ていなかった。 ここで仁川行きニュー・ゴールデンブリッジ(新金橋号)の2等室チケットを110米ドルで買った。 ニュー・ゴールデンブリッジに乗り込んだ瞬間、浪人は妙な気分に襲われた。 そのときの様子を拙著「アジアフェリーで出かけよう!」(出版文化社)に、こう書いている。 初めて乗る船のはずなのに、懐かしい感情がこみ上げてくるのだ。(中略) 船尾にあるデッキに出た。このデッキもどういうわけか、初めてじゃないような気がする。 ※以下、緑の文字は「アジアフェリーで出かけよう!」からの抜粋です http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%A7%E5%87%BA%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%88%E3%81%86-%E9%87%91%E4%B8%B8-%E7%9F%A5%E5%A5%BD/dp/4883382516 その答えはこの船上で出会った韓国人オフィサー・車(チャ)さんのひとことで氷解する。 「この船は、もともとオリンピア88だったんですよ。あなたが乗ったときにも、私と顔を合わせているかもしれないですね」 浪人はこの7年前、1988年2月に大阪からオリンピア88で初めて韓国を訪問している。 この船に乗ってから、僕につきまとっていた「デジャヴ」感も、車さんの言葉で吹き飛んだ。 いま浪人が韓国海苔をつまみにジョッキいっぱいの生ビールを味わっているレストランでは 夕食の時間となったので、食堂に行った。食券を買って、セルフサービスで食べる。ウォンか米ドルで支払う。中国元はもう使えない。厨房のスタッフも韓国人だったので、少しだけ覚えた韓国語で注文し始めたところ、僕の横にいたオバサンが「日本語で言って下さい!」と日本語で言う。そこで日本語でオーダーすると、そのオバサンが韓国語に翻訳してくれた。僕の韓国語が、あまりにもひどかったらしい。キムチや韓国のりをベースにした、いかにもという定食だったが、脂っこい中華に疲れた胃には、とても新鮮であった。 という体験をしている。 昼間に大量の汗を流した浪人は、一気に生ビールを飲み干し、 コンビニに走っていって韓国製缶ビールと、これまた韓国製ポテトチップス トータル3200ウォンを買う。 アルコールが脳にも浸透し、13年前の記憶が次第によみがえってくる。 免税店は当時も存在していた。 ところが船内の基本通貨は韓国ウォン。 中国約1ヶ月にわたって旅してきた浪人もホソやんもウォンなど持ち合わせていない。 これではロビーの自販機にある韓国ビールもジュースも飲めやしない。 現在のKCブリッジのエントランスロビーにはパンスター・ハニーにあったのと同じ会社の日本製飲料の自販がある。 ちなみに日本円が使用できる自販はこれ1つだけ。 2人は困り果ててしまった。 すると、僕らの横を通りかかった船員が「どうかしましたか」と、これまた日本語で話しかけてきた。彼は「新金橋号」で働いている中国人青年だったが、日本語を勉強していたので僕らの話も理解していたのであった。 「この船では特別に両替サービスはやってないけれども、この免税店でドルをウォンに換えることはできますよ」 と教えてくれた。 浪人たちは免税店で100ドルを7万ウォンに換えてもらった。 後で知ったのだが、これは韓国のホテルや銀行よりもいいレートであった。 免税店の隣にあるギフトショップは ニュー・ゴールデンブリッジではカードルームだった。 ここではコーヒーのサービスも行われていた。 手に入れたウォンでコーヒーを頼み、ガイドブックを見ながら韓国での行動を打ち合わせる。黄海は実に穏やかで、ひとつの揺れもない。 オリンピア88で釜山に渡ったときは2等洋室、つまりベッドルームだった浪人だが ニュー・ゴールデンブリッジで仁川に向かうときは「僕らの今晩の宿は船底の広々としたザコ寝スペース」と アジアフェリーで出かけよう!に書いている。 船底の広々とした、といえばKCブリッジのオリンピアホールしかない。 翌朝、仁川に入港したニュー・ゴールデンブリッジを下船し、 徒歩15分のところにあった東仁川駅から電車でソウルに向かった2人。 ソウルで1週間を過ごし、セマウル号で釜山へ。 そしてそのまま旅客ターミナルから関釜フェリーで下関に。 実に1ヶ月ぶりの日本の土を踏んだのであった。 浪人とホソやんはいろいろ苦労したけれども、 この放浪旅行で東アジアの船旅の魅力にとりつかれた。 96年夏には長崎→上海→アモイ→香港→マカオ→高雄→金門島→台南→高雄→那覇→名古屋 97年夏には香港→広州→成都→楽山→重慶→(三峡下り)→武漢→南京→揚州→上海→大阪 という大旅行に出かけた。 旅の参加メンバーはその都度いれかわったが、ホソやんだけはいつも一緒だった。 しかし、こんな奇想天外な船旅はもうホソやんとはできない。 6年前の春、ホソやんは天国に旅立ってしまったからだ。 ホソやんとニュー・ゴールデンブリッジに乗った1995年といえば 日本人メジャーリーガーのパイオニアとしてロサンゼルス・ドジャースの背番号16をつけた 野茂英雄投手がトルネード旋風を巻き起こした年でもあった。 浪人たちが中国に渡っときは、その旋風がまさに最高潮に達していた時期であった。 韓国人オフィサーの車さんは親切な方で、浪人たちがこの1ヶ月間日本を離れていることを知ると 日本のニュースを何か知らせたいと思って、こう言った。 「ノモさん、この前勝ちました。やっと11勝目です。1ヶ月間勝てなかったのです」 その野茂投手も、ちょうど浪人が金沢から釜山への船旅をしているときに引退を表明した。 浪人はこのニュースを釜山の東横インにあるPCで知った。 「ホソやん、ノモも引退だってさ。もうそんなに歳月が流れたんだな。 トルネード旋風の年に韓国まで乗った船は名前も変わって、 あちこち古さも目立っているけどまだ現役だよ。 その船に今度はひとりで乗ったよ。 おまけにその船でまた関門海峡を通るんだ。 歳月は流れて変わるものもあれば、変わらないものもあるんだな」 浪人は心の中で天国のホソやんに語りかけながら 韓国製の缶ビールをグイッと飲み干した。 (つづく) |
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